チベットの歴史

中国政府は「チベットは歴史的にいって中国の不可分の一部である」という主張を展開し、チベット占領を正当化しています。
しかし、チベットが現在のような形で中国による干渉を受けることは、7世紀に古代チベット王朝が歴史に登場して以来、1950年の中国人民解放軍の侵略までありませんでした。
7世紀に成立した吐蕃王朝は、9世紀に分裂によって滅亡するまで、中国の唐王朝と時には対立し、時には友好関係を持ちながらも対等の関係を保ちました。
その後、元や清により、領土を占領されたこともありましたが、元も清も中国を統治はしていたものの、漢民族国家でなく中国を占領した外来勢力であることは、みなさんも歴史の授業で習われたことでしょう。
チベットは独自の通貨を用い、独自の言語と文化を持つ「独立した国家」でした。

1949年に設立した中華人民共和国は、翌年の1950年「人民解放軍の義務は台湾、海南島、チベットの解放である」と声明を発表、東チベット地方への侵略を開始し、またたくまに首府チャムド(昌都)まで征服してしまいました。
チベット政府「ガンデンポタン」は国連へ提訴したもののも失敗に終わり、1951年には中華人民共和国とチベット政府は「中央人民政府と西藏地方政府の西藏平和解放に関する協議」(いわゆる「十七か条協定」)を締結しました。
この協定は、チベット政府が辛亥革命以来主張していたチベット全域の領有と統合を否定し、チベット政府に対してチベットの一部分「西蔵」の統治機関としての地位しかみとめないものでした。
そして、人民解放軍はチベットの首都ラサにまで進駐することになりました。

「十七か条協定」により「西蔵」の領域の外部におかれたチベット東北部のアムド地方(青海省、甘粛省西南部、四川省西北部)や、チベット東部のカム地方東部(四川省西部、雲南省西北部)などでは、1955年、「民主改革」や「社会主義改造」が開始されました。その圧制に耐えかねたチベット人による抵抗運動が1956年から始まりました。
各地に広がった抵抗運動は次第に激しくなり、中国軍によって村や寺院が破壊され、ゲリラ活動を扇動したという罪で僧侶たちが逮捕され始めました。
それに伴い「西蔵」で認められていた自治権も日に日に有名無実のものとなっていきました。
抵抗運動はやがて首都ラサにまで及び、1959年3月10日、とうとう市民たちによる武装蜂起が勃発します。
中国軍による砲火が降り注ぐ中、ダライラマ法王は3月17日の夜、ラサを脱出しインドへと向かいました。